| 歯科医師 田中廣一 | |
| 11月30日、新病棟への引っ越しが無事行われた。12月2日月曜日は、いつもの歯科診療日だが、新病棟では医局も廊下も戸惑うほどの広さである。早速、旧2病棟にいらした患者さんの元へ直行したいが、広くて何処にいるか分からない。以前は病室に入ると10人もの顔が目に入ったが、今は違う。最大4人である。誰がどこにいるのか見当がつかず、1階から順次診ることにした。 とにかく広く、明るいが第一印象である。バリアフリーがいっそう広さを感じさせてくれる。いつもタバコをおねだりするY氏も、戸惑っておられるのかタバコどころではない様子。新しい環境は気持ちのいいものである。この清潔さをいつまでも維持し、清潔な職場であって欲しいと願わずにいられない。職員一同が我家の新築のつもりで、ついた汚れはそのつど徹底的に始末したいものである。 さてこのように上屋が立派になると、中身のソフト面にも新たな充実がほしいものである。この広いスペースを有効に使い、患者さんにとって心の安まるくつろげる場になればと思う。 今年の夏、介護施設の関係者がヨーロッパの各施設を見学しその報告を聴く機会を得た。その1つ、ハンブルグでは、まず、施設内に臭いが全くないことに気付き、伺ったところ、2時間ごとに始末しているそうである。それから寝たきりがいなく、全員積極的にイベントに参加させているそうである。また部屋には一部家具なども持ち込み、生活をエンジョイしている感じがみられたそうである。部屋にはカーテンなどでいい雰囲気をかもしだしている報告があった。現状の日本の医療でどこまでやれるか問題だが、御殿場高原病院としては、認知症症の先駆病院として発足した経緯からも、他施設にはない特色を出し、出来ることから取り入れてほしいものである。 旧病棟では、ベッドの枕元にかろうじて家族の写真とカレンダーをはるくらいが精一杯だった。個人の持ち物がこれだけではさびしいものである。枕元の写真といえば、コミュニケーションがとれ、笑顔を見せてくれる患者がいる。それまでは口も開けてもらえなかったが、若い頃ワンちゃんと撮った1枚の写真であった。「この写真は若い頃のUさんの写真ですか?」と尋ねると、もの静かに「このワンちゃんはとてもお利口なんですよ。私以外の人からはものを食べないんです。そして『お食べ』はフランス語でマンジュと言います。マンジュと言うまでは食べないのです。ある時お客さんが見えておマンジュの話をしていたら、ワンちゃんがすぐ食べてしまったのです」と笑ってくれました。「では今度食事のとき、私がUさんにマンジュと言いますから」と言うとUさんは笑って、「マンジュは人には失礼な言葉です」と、マンジュの活用形らしき発音を、すらすらと披露してくれました。 Uさんのカルテを見ると、昔、某大手商社のフランス駐在員の奥様のようでした。ある時、お見舞いに見えたご家族に、「Uさんは私にフランス語を教えてくれたんですよ」と言うと、「あら、そんなことがあったの?」と、にぎやかな会話ができました。実はこのUさん、百歳のお婆ちゃんなのです。その後は毎週待っていたように口の中を見せてくれます。そしてもの静かな声で「先生また来てください」と、にっこり笑って別れます。 このような会話を楽しみにしていたもう1人のHさんも忘れられない。伊東の網代の新鮮な魚の干物の話である。あじやかますの獲りたてを数時間干したのが1番うまいそうである。このときのHさんの饒舌な話しぶり、顔つきはもう完全に50年前のHさんに戻っている。昼飯前の私は胃袋も、唾液もHさんの話術に聞き入ってしまった。今日が何月何日かわからなくても、昔話ではもはや病人ではないのである。 |
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