歯科医師 田中廣一
 口中にできる癌を専門的には口腔癌と言いますが、わが国では頻度は余り多くはありません。日本人に多い癌は消化器癌と肺癌です。種類もお国柄によって違い、アメリカでは肺癌が多く、東南アジアなどでは口腔癌が多いことが知られています。癌も風習、生活様式、食生活、文化そして人種によって異なるのも興味あることです。
 日本人は胃癌が多いことで知られていますが、最近では肺癌がトップです。アメリカに移住した日系二世や三世の世代になると胃癌は少なくなり、食生活や環境によって左右されることが分かります。
 このように癌の疫学的調査は面白いもので、喫煙者と非喫煙者では明らかに喫煙者に肺癌になるリスクが高いことから、タバコは肺癌誘因の1つとされています。リスクの高いタバコの他に、ビンロージュの葉?が知られています。東南アジアなどの原住民が、この葉を咬みタバコのように咬む風習があり、この葉に発癌物資が含まれているためです。
 口の中の癌は皮膚癌のように直接見ることができ、前癌病変とか、がんもどきなどいろいろあります。癌に移行しやすい病気もあります。小生は口内炎が時々できると癌の前兆ではないかと危惧する時があります。もう体のどこかに癌の1つや2つできてもいい年齢に達していますが、できれば専門外の病気になりたいと思ってます。
 一般に口腔癌は見て触診でおよそ見当がつきますが、レントゲンや画像診断でほぼ確定します。治療に入る前に癌の性状を知るため、生検といって病変部の一部をとって顕微鏡で調べます。癌細胞も人の顔と同様に千差万別で、おとなしそうな癌から、見るからに悪性度の高いものまで、いろいろな面構えがあるのです。
 小生は口中の癌に興味を持って三十余年がいつのまにか経ってしまいました。振り返ると、患者の病状、治療内容、手術の内容などが、今でも走馬灯のように思い出されます。不幸にして亡くなった人はなおさらで、ご家族の顔も脳裏に残っているほどです。幾人かの患者さんと交わした話の内容まで覚えていて、なぜかお盆の時期になると思い出すのが不思議です。
 癌と診断がつき入院することになった81歳のお婆さんが、突然「いやだ!」「なぜやなの?」「おらの村から大学病院に行って戻ってきた人は一人もいねえ」と困らせたことや、気仙沼のカツオ節工場の社長は入院中でも経営から片時も離れられない人でした。「先生、癌なら癌と言ってくれ。今カツオの仕入れで一年で一番大事な時なんだ。癌なら病院で死ぬより仕事をしながら死にたい」。
 当時は今のようなインフォームド・コンセント(説明と同意)体制もはっきりなく、治療の説明や告知は家族中心で治療に入ったようでした。大学病院に全てお任せの感が強かった時代でした。
 口腔癌と言えば、東北大学在職中に貴重な体験をさせていただきました。昭和58年頃か仙台藩伊達政宗公の霊廟発掘調査が始まり、三代伊達綱宗公の下顎骨に異常な骨破壊像が認められ、小生が古病理学調査をして報告書をまとめました。当時の新聞に「伊達綱宗公の死因は口腔癌であった」と報じられました。このように癌が江戸時代にもあったのです。たまたま病巣が下顎骨で骨の保存が完璧だったなど、いくつかの偶然に恵まれて診断できたことが大変ラッキーでした。
 しかも当時の御殿医は伊達治家記録に殿の病状について詳細に記録していました。癌という病名こそないが、殿の歯齦(歯肉)は崩れ、食事は取れず、日に日にるい痩(やせ細る)していく姿を詳細に書き残していました。これは今の末期癌の姿と一致している貴重な資料といえます。当時は今のように痛み止めも麻薬もなかったのですから、想像に絶する苦しみだったに違いありません。痛みはお酒ででも耐えたのでしょうか。